連載エッセー「私と床の間」

私と床の間 ③

「桜の木の床柱の感触」

 京都在住 写真家 亀村俊二 平成30年11月

 

子どもの頃に私が育った家は京都市北区、金閣寺の傍、大正の初めに曾祖父が隠居のために手に入れた当時の古家でした。

 

京都でよくあるべんがら格子の町家ではありません。
細長い敷地に粗末で小さい家と離れが建っていました。

 

庭が二つあり、一方の庭の真ん中には大きな洞のできた樫の古木が、もう一方には小さな池があって、私はよく庭で遊んでいました。
小さい家には私たち家族、離れに伯父家族が暮らしていました。

 

私たちの住んでいた家は上から見るとほぼ正方形、一階は表の間、仏間、居間と、おくどさんのある台所、奥には井戸がありました。
2階は八畳と六畳そして三畳間です。

 

私はおばあちゃん子で祖母の八畳間に布団を並べて寝起きしていました。祖母は風流人で、季節ごとに色紙や短冊の絵を架け替えて日々の暮らしを楽しんでいました。

 

そんな祖母のそばで話を聞くことが好きでした。

 

私が生まれる前、生活に困った時代もあったのか「ええもんは、ぜんぶ道具屋さんが持っていかはったし、今はなんにも残ってしまへん」とよく言っておりました。

 

その座敷には「床の間」と「違い棚」があり、中央の床柱は太くもなく細くもなく、まっすぐに伸びた桜の皮付き古木で、渋い飴色のつやを放っていたのです。

 

なぜ、桜ということを知ったかというと、祖母が自慢げに床柱を磨きながら「これ、桜の木えっ」と教えてくれたからです。

 

私は何故だかいつもその表面の模様を観ていました。木肌を撫でていたことも思い出します。
その磨き込まれた繊細な感触は、今でも私の掌にぼんやりと残っているのです。

 

そんな思いが残る小さな家も、昭和48年に台所が傷んできたので父が改築しようと大工さんに相談したところ、突然に建て替えの話が持ち上がってしまい、壊されてしまうことになったのです。

 

今はもうあの瀟洒な家も庭の樫の木もなくなってしまい、懐かしい記憶と後悔だけが私の心に残っているのです。

 

伯父家族の離れだけはまだなんとか遺ってはいるのですが・・・

 

私と床の間 ②

「床の間に思うこと」 

 日本画家 村田林藏 平成30年10月

 

 日本建築の中で「和」のイメージは?と問われた時、私は真っ先に「床の間」と答える。畳から一段高くなった別空間は、日本の歴史、芸術、自然などを室内に取り込み、表現するために用意された、独特な舞台である。書画や陶器、生け花が、素晴らしい配置でこの舞台に飾られる時、思わず息を飲むことがある。瞬間に「風雅」といった言葉を思い出す、床の間でなければ生まれない感動だ。飾る対象を極力絞りこみ、余計に語らない表現の様は、東洋絵画の「余白の美」にも通ずるだろう。日本人特有の研ぎ澄まされた美意識がそこに現れている様にも思う。

 

 しかし近年、生活様式の変化に合わせた西洋建築志向もあってか、住居から「和室」が減少し、それに伴い「床の間」の存在も減ってきた。「飾る」「愛でる」ための特別な舞台がなくなることは、前述の伝統文化の在り方、存続そのものにも大きく関わってくる問題だ。

 

 時代の流れによる生活様式の変化は、日本の至るところに影響を及ぼしていることだが、床の間の減少で日本画の世界も変わりつつある。当然ながら和室よりも洋室の壁に飾ることを前提とした「額装」が主流になってきているのが現実だ。一般的に「掛け軸」は保存上細く巻くため、顔料を薄塗りで仕上げる制約があるが、「額装」の絵はその必要が無いことから塗り重ねた重厚な絵が可能となる。その為、「日本画なのに油絵に見える」とよく言われる所以はここにある。事の良し悪しは別として、住居との関りが日本画の伝統表現をも変化させてきた例である。

 

 私自身、現在の家を建てる際に日本画家としてぜひ欲しいと、ささやかな床の間を作った。ここだけは自分が描いた掛け軸はもとより、器や季節の花木を飾り、鏡餅をそなえ新たな年を迎えるなど一年を通して様々な表現の舞台として活躍している。

 

 「床の間」は、日本文化を守り受け継いでいく上でも大切な場である、と改めて声を挙げたい。(終わり)

 

 

私と床の間 ①

「床の間と家族の秩序」 

 国際ジャーナリスト 安部雅延 平成30年8月

 

 温泉地として知られる大分県別府市に生れた私は、小学校1年生まで旧料亭の建物に住んでいた。別府には当時、木造建ての旅館や料亭が乱立し、中には経営が行き詰まり、売りに出される建物もあったからだ。

 

 私は幼稚園前からの記憶を鮮明に覚えていて、今でも当時の家の間取りを描くことができる。トイレは男女それぞれ3つあり、別府の看板ともいうべき風呂は、男風呂と女風呂があり、中庭には池もあった。各部屋は客を接待するように作られ、床の間は各部屋にあった。

 

 だから、床の間は当たり前の風景だった。高校の国語の教員だった厳格な父は、幼い私が床の間の上に上がると酷く叱ったものだ。その時叱責の根拠の説明はなかったと思うが、床の間に上がることと、本を足で踏んだりすることは、固く禁じられていた。

 

 次ぎに引っ越した家にも床の間があり、父はいつも床の間を背にして座り、床の間には大切にしていた掛け軸が飾られ、いつも花が生けられていた。料理の得意な母を目当てに、たびたび父の同僚教員が何人も訪れた時も、なぜか床の間は荷物置き場になることはなく、宴会中、酔っぱらって踊り出す者もいたが、不可侵の空間として堂々と存在していた。

 

 だから、床の間は家の中心であり、精神的にも神聖な存在だった。父は私が何か間違いを犯すと必ず、床の間を背にして叱責し、説教した。家族で重要な話がある時も床の間を背にして話があった。母は父と同じ上座に座ることはなく、床の間を横に見る位置に座っていた。

 

 無論、九州男児という言葉があるように、明確な家父長制度があった九州の伝統という部分もあったと思う。建築的には明らかに床の間が家族の秩序を保つ役割を担っていた。東京で総合雑誌の編集者になった時も、身についた人間の上下関係をわきまえ、言葉使いや行動規範でさほどの努力はいらなかった。

 

 当時、編集に携わっていた総合雑誌は、「床の間雑誌」などと呼ばれ、功成り名を遂げた人物が寄稿したり、対談したりする場を提供する意味合いがあった。対談の時にどちらを床の間を背に上座に座らせるかは熟慮を要したことを覚えている。今は、驚くほど行動規範が変わり戸惑うことも多くなった。(終わり)